ファミリーヒストリー 三宅裕司ルーツの墓は岡山の古墳で父親は鉄道カメラマン!見逃し動画配信や再放送は?

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NHKファミリーヒストリー
「三宅裕司~先祖の古墳か?
父は映像に思いをこめた~」

三宅裕司さんは今年68歳を迎え
主催する劇団SET
スーパー・エキセントリック・シアターは
今年で40年を迎えます。

三宅さんは東京・神田の生まれで三代続く江戸っ子です。

しかしそのルーツは岡山県でした。

かつて三宅家があった裏山に、先祖の古墳らしきものが有り、室町時代かそれ以前からの物と判明しました。

今回、無口で謎だらけの父・肇さんが岡山から上京した理由も明らかになりました。

カメラマンになった父が、我が子裕司さんの成長を記録したフィルムもみつかり、無口だった父が映像に込めた思いに、三宅さんは思わず涙をこぼしました。

今回の投稿では

■ 「ファミリーヒストリー・三宅裕司」あらすじ
■ 「ファミリーヒストリー・三宅裕司」見逃し動画の案内

を紹介します。

※再放送日は、分かり次第更新します。

「ファミリーヒストリー」は、U-NEXTの
見逃し動画配信で31日視聴用のポイントを使って間実質無料で、ご覧になれますよ。

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三宅家のルーツは岡山県

神田の江戸っ子のイメージがありますが
ルーツは岡山県にある事が分かりました。

肇さんの戸籍を辿ると旧・岡山県邑久郡土師、
現在の瀬戸内市長船町・土師(はじ)という事が分かりました。

土師は、土器を作る職人が多かった為名付けられた町らしいです。

住所を調べると現在の三宅家のルーツの家は
川の中に沈んでいる様です。

平成2年の大水害により川の拡張工事により三宅家は立ち退きとなり区画は川の中に沈んでしまったそうです。

この地に住んでいたのは、曽祖父の名は、九平治さんです。

父親方の家系図は

曽祖父・九平治さん
祖父・幹太さん
父・肇さん
裕司さん

となります。

家の裏の神社の本堂が出来る時に多くの額を寄進した為、九平治さんの名が神社に記されています、

九平治さんは、安政元年土木常設委員を務め、工事の仕事で、村のまとめ役をしていました。

自家は、農業を営み、醤油醸造、米穀商をも営んでいました。

ですので家は大きく、庭を囲んで家は住む家と
米倉やその他の倉庫が有り
使用人も多くいたそうです。

川沿いに家があったのは着岸した船からお米などの農産物を直接に倉庫に運ぶ為と思われます。

当時の三宅家を知る人物として
幼馴染、九平治さんの弟
又三郎さんのお孫さん
担(ひろし)さんが居ました。

偶然にも担(ひろし)さんは
神田神保町にお住まいでした。

担さんによると
居つ頃から土師に三宅家が住んでいたか?
は分からないが屋敷の裏の山に三宅家のお墓があった事を覚えていました。

墓がいくつもあり、高いところに行くにつれどんどん古い墓があるとの事でした。

そして、一番高い所にある墓は、普通の墓では無く、
古墳があったと父親から聞いていたとの事でした。

スタッフが嘗て三宅家が所有していた裏山を探した所
先ず、およそ280年前の亨保19年(1734年)の墓が見つかりました。

それから探すこと2時間、
中腹に直径5メートル程の塚が有りました。

それは石を敷き詰めた「葺き石」と呼ばれる草が生えないように工夫された葺石古墳の跡でした。

一緒に古墳を探した郷土史家の安土義忠さによると
室町時代或いはそれ以前から住む代表者有力な一族と考えられるそうです。

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祖父・幹太さん

明治13年祖父・幹太が誕生しました。

家業の米穀商を継がず、隣村の小学校で28歳にして校長先生にまで上り詰めました。

自らの給金を教え子たちの学資に使っていました。

大正4年、幹太さんの元に生まれたのが三宅裕司さんの父親となる肇さんが誕生しました。

しかし同じ年、幹太さんは享年35歳で亡くなりました。

そんな幹太さんが生徒たちに慕われていたエピソードとして、担さんは、幹太さんの実家の前で手を合わす教え子の姿を記憶していました。

幹太さん自らの給金で学校に行かせてもらった恩がいつまでも忘れられないのでしょう。

生後まもなく父を亡くした肇さんは九平治の元で育てられました。

九平治さんはやがて、弟に米穀商を任せ自らは岡山市に移りました。

この頃、九平治さんは先敬流(せんけいりゅう(生家花評議員も務める程の師匠として岡山の女学校でお花を教授する仕事をしていたそうでうです。

現在は山梨県の九平治さんの弟・豊さんの家系で引き継がれています。

現在は、哲男さんが引き継いでおり
哲男さんはミュージシャンが
コンサートで使用する
イヤーモニターを開発し、三宅裕司さんと同じ事務所の桑田佳祐さんも偶然にも使用しています。

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肇さんが岡山から東京に上京した理由

肇さんが慕っていたのが叔父の豊さんで、
豊さんの影響でカメラ好きになりました。

そのウデは、「少女と犬」が雑誌に掲載される程でした。

モデル後には哲男さんの母となる麗子さんでした。

こうして肇さんは、写真の楽しさを覚えました。

昭和9年、19歳で上京し渋谷区の東京写真専門学校、
現在の東京工業大学に入学しました。
日本初の写真専門学校です。

写真のウデを買われ港区の
鉄道省・鉄道技術研究所
現在の国分寺のJR・鉄道総合技術研究所国立研究所に就職し、庶務係に配属され調査に必要な写真の撮影を担当しました。

そして、佐野美智さん、三宅裕司さんの母親となる人でした。

母親美智・佐野家のルーツ

現在の新潟県上越市岡田の庄屋でした。

母親方の家系図は・・・

8代前才兵衛(さいべえ)さん
6代前源太夫さん
祖父・敬司さん
祖母・美根さん
母・美智さん
裕司さん

となります。

村の資料には安永9年(1780年)庄屋・才兵衛さんの記録がありました。

才兵衛さんは村を代表する庄屋で、村を守る立場でした。

祖父・敬司さん

祖父・敬司さんは、名門高田中学校に入学しました。

その頃、町の商店に飾られた絵に感動しました。

それは描かれた絵では無く謄写版(ガリ版)で印刷された絵でした。

謄写版は、浮世絵の様に絵を印刷する事も出来ます。

敬司さんは、謄写版屋の主人と仲良くなり謄写版屋で働くこととなりました。

その謄写版屋の主人は、日本で初めて謄写版を作成した岡庭馬吉さんでした。

その功績で上越市の前身の高田を全国に知らしめた人物でした。

その熱心な働きぶりを見て岡庭馬吉さんは娘で長女の美根さんとの縁談を持ちかけました。

やがて、敬司さんと美根さんが結婚しました。

敬司さんは岡庭馬吉さんの跡取りとなり
現在集英社・小学館など、
出版社が多く存在する
神田神保町に一緒に上京し謄写版の会社「東亜商工」を立ち上げあげました。

神田神保町は学校や文房具店が多く有り、今で言うコピー機の謄写版が売れると考えたからでその読みは大当たりしました。

文房具店を代理店にし、販路を拡大。

台湾など海外にも手広く事業を広げました。

三宅裕司さんの母親・美智さん誕生

大正8年、母親となる美智さんが誕生しました。

関東大震災が発生しました。

出版社や古書店が多かった神田神保町は火の回りが早く人々は逃げ回りました。

敬司さん一家は、靖国神社に逃げ込んだそうです。

そして震災後は直ぐに会社の復興に取り掛かりました。

やがて事業は成功し、敬司さんには美智さんをはじめ、9人の子供がいました。

三宅裕司さんの父・肇さんと母親・美智さんとの出会い

三宅裕司さんの父・肇さんと母親・美智さんとは、山登りやスキーを楽しむグループで出会いました。

肇さんは、当時珍しい8ミリカメラで映像を撮影しました。

肇さんは、撮影した映像の上映会を開きグループを楽しませました。

そんな素朴で優しかった肇さんに惹かれ
肇さんは26歳、美智さんは22歳で結婚しました。

三宅裕司三曰く父親・肇さんは無口で
「俺の言葉は映像だ!」
と言いたかったのでは?
と冗談半分に語りました。

結婚後、二人は、昭和16年北区西ヶ原に引っ越しました。

やがて太平洋戦争が勃発しましたが、肇さんは招集はされませんでした。

その理由は肇さんの写真の技術が国の為になると判断されたと考えられています。

長男が生まれるも早死し、次男薫が誕生しました。

東京大空襲で東京は焼け野原になるも、神田神保町は空襲を免れました。

それは、風向きに助けられた、或いは皇居が近かった為、爆撃が米軍では禁止されていた事も関係するかもしれません。

やがて太平洋戦争は終わり
昭和21年次男が3歳の麻疹にかかり肺炎を併発し他界。

その後、三男啓司さんが誕生し
昭和26年三宅裕司さんが誕生しました。

父親・肇さんは、昭和32年
夢の超特急「新幹線」の
広報担当でプロジェクトに参加しました。

この頃、係長への昇進の話が持ちかけられましたが断りました。

それは写真を極める為でした。

小学生時代

小学生は成績優秀、スポーツ万能だったそうです。

更に日本舞踊の名取の母より三味線や日本舞踊を習っていました。

また、会があれば司会で仕切るのも上手く、既に頭角を現していた様子です。

人気者で人の悪口は言わない性格でした。

この悪口を言わない性格は、SETの人を小馬鹿にしない劇に通じます。

高校は、明治大学付属明治高等学校に入学すると落研に所属しました。

大学卒業後は就職せず、演劇の道に進むことにしました。

両親は反対しませんでした。

三宅裕司さんの兄・敬二さんによると、長男・次男も幼くして亡くしたので好きにさせたかったそうです。

多摩ニュータウンのケーブルテレビの司会をするも番組自体が2年終了。

そして劇団大江戸新喜劇に入り、盟友小倉久寛さん出会いました。

小倉久寛さんは、三宅裕司さんの面白さに憧れて大江戸新喜劇に入りしました。

そして、昭和54年、28歳でミュージカルアクション・コメディの劇団SETを、盟友小倉久寛さんらと立ち上げました。

その噂を聞きつけたニッポン放送の宮本幸一さんが聞きつけSETの劇を観劇。

そして昭和59年、伝説のラジオ番組ヤンパラ「ヤングパラダイス」のパーソナリティーに選ばれました。

それからはテレビにも進出し、多くのバラエティ番組で司会、更には映画にも進出し現在の地位を確立しました。

そして「おしん」などで俳優の道を歩んでいた伊東四朗さんを誘い「熱海五郎一座」を立ち上げました。

伊東四朗さんは三宅裕司さんに誘われなければ、おしんのお父さん役ばかりの俳優になっていただろう。

喜劇人としての自覚が持てた

と出会いを語りました。

また三宅裕司さんいには東京喜劇を貫いて欲しい。

東京喜劇の定義は、伊東四朗さん曰く、粋優先野暮排除です。

三宅裕司さんは最後に、ファミリーヒストリーを両親に見せたかったと語りました。

母・美智さん 平成4年他界・享年72歳

父・はじめさん 平成19年他界・享年92歳

そして、
SETの劇団員は自腹で給料制にしていて
祖父・幹太さんが自腹で学校の生徒の
授業料を払って居た所と共通点がある
と語りました。

でも、三宅裕司さんは

誰も俺の家の前で拝んだヤツは居ない!

と愚痴って番組は終了しました(笑)

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ファミリーヒストリー 三宅裕司を見逃した方へ

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まとめ

三宅裕司さんは、声と喋り方が伊東四朗さんにそっくりで自分もヤンパラで初めて三宅裕司さんの声を聴いて伊東四朗さんだと思っていました。

そんな三宅裕司さんと伊東四朗さんが共演するなんて思いもしませんでした。

本日は最後までご覧いただきありがとうございました。

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